相澤 胡桃(2話)
「お母さんお母さーーん!」
数ヶ月後、胡桃はドタドタと騒がしくリビングにいる母の元へ向かった。
外はもうすっかり冬の気温だ。
胡桃は学校から、母も買い物から帰ってきたばかりで暖房が効いておらず、家の中はまだひんやりとしていた。
「どうしたのよ〜」
母はリビングのテーブルでココアと牛乳を混ぜ合わせていた。胡桃のピンクの水玉模様のマグカップも隣に用意してある。
「ねっねっねっ、やばくない、二次も通ったんだけど!」
胡桃は落ち着いた様子の母の目の前に自分のスマホを見せつけた。そこには二次審査通過のお知らせという件名のメールが表示されていた。
「あらすごいじゃない、おめでとう」
「ねえこの重大さわかってる!?あたし二次審査も通過したのって初めてなんだよ!?」
胡桃は興奮して少し早口でまくしたてる。
秋に受けた受験前最後のオーディションが、なんと書類・二次ともに合格したのだ。残るはいよいよ最終審査のみ。長年の夢まで、あともう一歩というところまで来れた。
しかも、名前を言えば大半の人は知っている有名なグループの追加メンバーオーディションだ。胡桃も何度かライブに行ったことがある。最後に受けるならここだ、と長い間色々なオーディションサイトを見て決めた。
「そういえばそうねぇ。まあ頑張って」
母はレンジで温めたココアを胡桃の席にそっと置いた。
胡桃は椅子に座りココアに息を吹きかけて冷ます。
「でも最終審査ってなんか難しそうじゃない?あんた大丈夫なの?」
母はからかうような口調でそう言った。
胡桃は「大丈夫だもん」と返した。
最終審査は二次審査でも行った面接に加え、歌とダンスのパフォーマンス審査もある。
しかし、ここはむしろ自信のある項目だった。
歌もダンスも披露すれば褒められる出来だった。アイドルソングもライブDVDを見て昔から何度も歌って踊っている。
「そ。ならいいけど」
母は少し冷めたココアを一口飲んで、頑張りなさいよ、と微笑んだ。
2週間後。朝、胡桃は初めて降りる駅でオーディション会場方向の改札を探していた。都会の大きな駅は改札が多い。
ホームも混んでいて、とてもゆっくり迷いながらは進めない。
すみません、と言いながら人混みをかきわけて行った。
やっとの思いで駅から徒歩数分のオーディション会場のビルにたどり着いた。
エレベーターの前で、胡桃は手にしていたスマホの画面をタップする。
ロック画面に、大好きなアイドルの写真が映る。
「よし」と小さく呟き、スマホをリュックのポケットにしまった。
時刻は午前11時を迎えようとしている。
オーディションも終盤、面接の時間になっていた。
胡桃は部屋の前の椅子に座り、順番を待っていた。
先に行(おこな)ったパフォーマンス審査は自分で言うのも何だがそこそこの出来だったと思う。
アイドルらしい歌い方や動きを取り入れたつもりだ。
しかし、自分の面接の順番が迫ってくると同時にとてつもない緊張感が押し寄せて来ていた。
これで最後なんだ。
なるべく意識しないようにしていたが、ここに来て一気に頭の中に色々な感情が入り乱れてしまった。
次々と女の子達が扉を開けて部屋から出入りする。
一人、また一人と胡桃の隣の椅子から人が消えていく。席を詰めるたびに緊張は強くなっていった。
いよいよ右隣は誰もいなくなってしまった。
大丈夫、大丈夫、いつもみたいに、リラックスして。
必死に心の中で自分に言い聞かせる。
前の子の面接が終わるまでの時間は本来は10分程度のはずだが胡桃にはとても長く感じた。
俯いていた胡桃の耳に、ドアを閉じる音が聞こえた。
ついに胡桃の番になってしまった。
椅子から立ち上がり、深く深呼吸する。
大丈夫。
2回ノックし、そっとドアノブを掴み、扉を開けた。
「失礼します」
ドアの向こうの部屋には、数人の大人が長机を挟んで向かい側に座っていた。
中央に座っている男の人が、おそらくプロデューサーだろう。
「エントリーナンバー57番、相澤胡桃です。よろしくお願いします」
深く礼をする。
「はい、よろしくお願いします。どうぞお座りください」
プロデューサーの右隣に座っている女の人が優しく微笑み椅子を指した。
「失礼します」
ゆっくりと椅子に腰掛ける。
緊迫した空気の中、面接が始まった。
「___はい、では最後の質問です」
数分後、いくつかの質疑応答をこなし、最後の質問になった。
これまで胡桃は順調に受け答えをしていた。
緊張していたことがかえって慎重に言葉を選び良い応答ができていたのだろうか。わからないが、胡桃の心は少し楽になっていた。
「あなたはこのオーディションに合格したら、どんなアイドルになりたいですか?」
これまで黙ってメモをしていたプロデューサーが質問を投げかけてきた。
普通の参加者なら、すぐに答えられる質問だろう。
しかし、今まですぐに受け答えをしていた胡桃の口はなかなか開かなかった。
「……」
とっさに言葉が出なかった。
ずっと漠然と「アイドルになりたい」とだけ考えて、オーディションを受け続けてきていた。
不合格の日々が続いていたからだろうか、合格してデビューしたらどうしたいか、きちんと考えてこなかったのだ。
オーディションに合格することがゴールになっていた。
アイドルになって、キラキラしたい。
それだけだった。
だけど、それって具体的には…?
思考を巡らせ、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
しばらくの沈黙が続く。
「………憧れてきたアイドルさん達みたいに…………キラキラした、存在に…なりたいです」
やっと出た言葉は抽象的で、とても曖昧なものだった。
こんな風にしか言えない自分が情けなかった。
「……はい、ありがとうございます」
プロデューサーは胡桃の顔をじっと見つめた。
胡桃は俯きそうになったが慌てて前を見る。
「以上で面接審査は終了です。ありがとうございました」
座っていた大人達が一斉に立ち上がり礼をする。
それを見て胡桃も立ち上がり深く礼をした。
「ありがとうございました」
そして、失礼します、とドアをゆっくり閉めた。
面接は終わったのに、ドアノブを掴むその手はまだ震えていた。
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