相澤胡桃(3話)
はっと目を覚ますと、見慣れた天井が視界に広がった。
「あ…」
夢を見ていたようだ。
窓の外をちらりと見ると、もう朝日が昇っていた。
胡桃はゆっくりと上半身を起こし、伸びをする。
壁にかかっているハンガーから制服を手に取る。まだぴしっと形の整っているブレザーを見るたびに、高校生になったのだと実感する。
あれから1年以上が経った。
胡桃はアイドルにはなれなかった。
1ヶ月経ってもメールが来なかった時、部屋で一人一晩中泣いた。
何が足りなかったのかわかってはいる。
だからこそ、まだ諦めきれないと思った。
高校に入り、本当に最後のチャンスに全てを賭けようと決めた。
そして無事、数日前から近隣の高校に通っている。
制服に着替え終わった胡桃はあくびをしながら部屋のドアを開ける。
時刻は6時。胡桃の家から学校の距離を考えると、少し早い起床だ。
「頑張らなきゃなぁ」
そう、胡桃はまだアイドルを諦めていない。
入学式の日。
舞い散る桜の花びらと見慣れない校舎にドキドキしながら校門から昇降口までの道を歩いていると、1番端にある校舎の横に、細い道が繋がっているのを発見した。
これってもしかして穴場じゃない?
そう思った胡桃は、スマホで時間を確認する。まだ集合の時間まで30分ほどある。
立ち入り禁止場所かもしれないので、人目を気にしながらゆっくりと歩いて行った。
細く曲がりくねった道を進むと、美しい桜の木とベンチが見えた。
どうやらここはあまり使われていない中庭のようだった。
今は人があまり来ないのだろう、手入れもあまりされていないようで草が伸びきっていた。
「あっ」
胡桃はいいことを思いついた。
高校に入ったら最後のオーディションを受けることは決めていた。
絶対に合格したい。そのためには、スキルアップも必要だ。
ここで練習しよう!
高校生の昼休みは長い。誰も来なさそうな場所だし、北校舎にも特別教室しかないので昼の時間帯は音も邪魔にならない。
家もそこそこ近いし、行ける時は朝もやろう。
どうやら、最高の練習場所を見つけてしまったようだ。
「ふふっ」
思わずにやけた胡桃の頭に、桜の花びらが舞い落ちた。
そんなことがあり、秘密の中庭で胡桃は主に昼休み、時々朝にダンスの練習をしている。
現在は昼休み。慣れてきたので、今日は歌も入れて踊ってみている。技術だけがあることも、アイドルらしすぎることも違う。その絶妙なバランスを出すのが難しい。
スマホから流れている音楽が止む。一曲分が終わったようだ。
胡桃はベンチに置いてあるスマホを手に取り、リピート機能をオンにする。
「よしっ」
気合いを入れて、もう一度踊り出す。
必死になって練習をしていると、どこからかガサガサッという大きな音が聞こえた。
植え込みの音だ。
しかし、大きな音が鳴るほど強い風が吹いているわけでもない。不自然だった。
すぐに、ドスンと重い音がした。何かが地面に落ちた音だ。
「いったぁ…」
それは女の子の声だった。
嘘でしょ、人が来た…?
胡桃はぱっと後ろを振り返った。
見ると、セミロングの茶髪の女の子が尻もちをついていた。
呆気にとられたが、すぐに
「ねぇ…大丈夫?」
と痛そうにお尻をさする彼女に手を差し伸べた。
「あ…だ、大丈夫です。ありがとうございます」
女の子はぱっと手を握り立ち上がった。
胡桃は彼女の膝についていた砂を払った。
持ち前の面倒見の良さが存分に発揮されてしまった。変に冷静な胡桃だったが、あっと思い出したかのように声をあげ、
「…っていうか、なんでこんな所にいるのよ!なんでかなー、ここには誰も来ないと思ったのに…また場所変えなきゃじゃん…」
と、ぶつぶつと小さな声でつぶやいた。
ここに人が来るなんて聞いていない。マンションの自宅、貸しスタジオ、学校。どう考えても学校が一番練習場所として都合が良かった。
若干不機嫌そうに頭をかく胡桃に、女の子は無邪気に声をかけてきた。
「あ、あの!」
「ん?」
「何で…」
女の子はその先を言いにくそうに口をモゴモゴする。
何故こんなことをしていたのか聞きたいのだろう。これは完全にずっと見ていたに違いない。
胡桃はもう諦めて素直に答えた。
「アイドル」
「えっ?」
「私、アイドルになりたいの」
これが三星遥との出会いだった。
会話をしているうちに遥と打ち解けた胡桃は、これまでのことを話した。
アイドルにずっと憧れてきたこと、オーディションを受け続けてきたこと、不合格続きなこと、次に受けるオーディションを最後にしようと決めたこと。
母以外に自分のこと全てを話すのは初めてだった。
笑われるかも、いつもそう思って人には話してこなかった。
しかし、遥は胡桃の夢を笑わなかった。
さらにこう言った。
「でも私、さっき見たのはほんの数秒だったけど…胡桃ちゃん、アイドルに見えたよ?」
「歌って踊ってる胡桃ちゃんが、キラキラして見えたの。だから才能ないなんてことない。胡桃ちゃんは天性のアイドルなんだよ!!」
「それでね…胡桃ちゃんが歌ってる姿、もっと見たいって思ったの。だから…絶対絶対、アイドルになってほしいな!」
ひょんなことから出会い、打ち解け、仲良くなった二人。
遥はそれから毎日昼の練習に付き合ってくれるようになった。
胡桃は遥に会うたびこの言葉を思い出す。
これは胡桃にとって嬉しすぎる言葉だった。
ただ練習をしているだけなのに、目をキラキラさせて自分の歌とダンスを楽しんでくれる。
胡桃についた最初の「ファン」、それが遥だった。
だから、遥の発言には言葉を失った。
「アイドルになりたい…かも」
ある日の昼休み、何気ない会話からこんな言葉が飛び出た。
「は…?」
胡桃は思わず口を開けて突っ立ってしまった。
ずっとファンとして自分のパフォーマンスを楽しんでくれていた遥が、今度は披露する側になりたいと言うのだ。
必死にその敬意を話す遥。
頭の中は混乱していたが、今遥に道を示せるのは胡桃だけだ。ゆっくり、言葉を選びながら遥に語りかけた。
「私はなんともいえないよ。それは遥自身の気持ちでしょ。
…自分と向き合って、答えを出さなきゃ」
そして優しく遥の両肩に手を添えた。
「私は遥が本当にアイドルになりたいって思ってるんだったら応援するよ。だからさ、真剣に考えてみなよ。」
遥の鮮やかな空色の瞳をじっと見つめる。
俯き気味だった遥が、ぱっと顔を上げた。
「ありがとう…私、考えてみるよ!」
胡桃はその言葉を聞いてホッとしたが、すぐに思案顔になった。
___答えを出さなきゃいけないのは、あたしもだよね。
その晩、胡桃は布団の中でずっと考えていた。
あの日はわからなかったこと。どんなアイドルになりたいのか。
もう一度、胡桃はアイドルになりたいと思ったきっかけを思い出す。
テレビで放送されていた人気アイドルのライブ映像。
乱れる髪、ほとばしる汗、大きな動きのダンス、キャッチーな楽曲、魅惑の歌声、ころころ変わる表情。
その全てが輝いて見えた。胸がきゅうっとあつくなり、その世界に見惚れ、憧れた。
あの時、彼女たちは胡桃に夢を与えてくれたのだ。
そこで、胡桃は何かに気付き、閉じていた目をはっと開いた。
遥は言っていた。
胡桃の練習を見ているうちにアイドルに興味を持ち始めたと。
「あたしの…?」
胡桃はぼーっと天井を見つめる。
自分の歌とダンスで、人に新たな夢を与えられた。
そう、あの時憧れたアイドルみたいに。
胡桃が憧れたのは、夢を与えるアイドルだった。
それが胡桃の中での「アイドル」の一つの正解であり、目標であることに、今やっと気づくことができたのだ。
もやもやしていた気持ちが晴れたのか、ずっと強張っていた表情が和らぐ。
そしてすぐに枕元に充電してあったスマホを手に取り、暗闇の中でブラウザを開いた。
ブックマークしてあるオーディション情報サイトを開き、サイト内のお気に入り欄に飛ぶ。
表示されたのは、とある事務所の新規アイドルグループメンバー募集のオーディションページ。
胡桃が数日前から候補に入れていたオーディションだ。
選ばれるのはたったの7名。
胡桃は、これを遥に受けないか提案しようと考えた。
誰が受かるのか、胡桃だけ受かるか、遥だけ受かるか、二人とも受かるのか、何もわからない。
しかも胡桃にとっては最後のオーディションだ。
しかし、自分がダメでも、遥に夢を託したい。
初めて自分を「アイドル」にしてくれた、遥に絶対に「アイドル」になってほしかった。
再びスマホを枕元に戻す。
そして寝返りを打つように体を壁の方へ向けた。
大好きなアイドルのA4ポスターが飾られている。
胡桃はポスターに向かって右腕を高く伸ばし、何かを掴むように手のひらをぎゅっと握った。
「あたしが目指すアイドルは…」
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