東雲 薫(1話)


まだ少しだけ寒さが残る4月の朝。
駅から少し歩いたところにある小さな交差点。
その信号機の横にひとり佇む東雲薫は、そっとスマホをポケットから取り出した。

イヤフォンを耳につけ、音楽を聴く。

人通りの少ないこの場所で音楽を聴くのは薫にとって朝の楽しみのひとつでもある。

しかし、1人の少女によってその楽しみも奪われることとなった。

「おっはよー!何にやにやしてんのっ」
「わわっ」

その少女は走ってきたかと思うと薫に飛びついてきた。薫が少しバランスを崩す。
「おはよ。もう、危ないなぁ〜」
飛びつかれた拍子に外れた左耳のイヤフォンをつけなおしながら挨拶を返した。

「へへーごめんってぇ〜」
そうケラケラと陽気に笑う彼女の名は真嶋愛莉。乱れた制服の着こなしや金髪、メイクから不良だと思われがちだが至って普通の高校生だ。

「ふぅむ、アイドルの曲聴いてたのね。薫、相変わらず好きね、アイドル」
「わ!さよ、おはよ」

いきなり薫の右隣から顔を出したのは小石川さよ。白い肌に黒い髪が映える美少女で、家は大豪邸のお嬢様だという。

薫は毎朝この交差点で2人と待ち合わせをして学校に登校している。
高校からの友達だがお互いを理解し合える親友なのだ。

「当たり前でしょ。大好きだよ、アイドル」
2人とも到着したので薫はイヤフォンをポケットにしまいながらそう答えた。

「そんなに好きならさ〜いっそなっちゃえばいいのにね?」
愛莉が何故か薫の頬をぷにぷにと指でつつきながら言った。

「え!?何言って…」

薫はいきなり頬をつつかれたのと愛莉の発言の二人に驚き飛び上がった。
少しだけ耳が赤くなる。
「よくアイドルヲタクがアイドルになったって話あるし。さよもそう思わん?」
愛莉がさよに話を振ると、さよもこくんとうなずいた。
「うん。薫かわいいし歌もうまいしいけると思うよ」
それを聞きさらに薫が慌てふためく。

「もー!!私は見てる側がいいの!」
「ほんと〜?あたし薫がアイドルになったらめちゃめちゃ応援するのに〜」

愛莉が薫の顔を覗き込む。その瞬間、薫は表情を見られないようにばっと上を向いた。

「いいのいいの。さ、早くしないと遅れるよ〜!」
「いたい」「わかってるって〜」
そして自分よりも背の低い二人の背中をばんと叩きそう叫んだのだった。



その日の夜。
明日の予習を終えた薫はノートを閉じて勢いのままにベッドへダイブした。
そして仰向けに転がり、はぁっと深いため息をついた。
顔の横にはスマホが置いてあり、好きなアイドルのライブ映像が流れていた。
横向きになり、スマホを手に取り画面をじっと見つめる。
ワンマンライブでたくさんの観客の前で歌い踊る大好きなアイドルがそこに映っていた。


「いいな…」


ぽろりと本音がこぼれる。

この大盛り上がりのライブ会場にファンとして行きたかったのか、それともこのステージに立ってみたいのか。

答えは後者。

彼女はアイドルが大好きで、そしてアイドルに憧れを抱いていたのだ。

だからこそ、今朝の友人たちの発言に驚いた。アイドルが好きなことは公言していたが、アイドルになりたいという夢は親にすら言っていなかったのだ。

アイドルになりたい。そう本格的に思い始めたのは中学3年生の頃だった。

昔からアイドルが好きな女の子がその夢を抱くのは自然なことかもしれない。しかし、夢見るだけなら誰でもできる。その意思を強く持ったまま行動できるかが大事なのだ。

普通ならここからオーディションを受けるだろう。しかし、薫はそれをしなかった。

勇気が出なかったのだ。

書類審査で落ちたらどうしよう。最終審査まで行けてもそこで落ちたらどうしよう。合格したとしてもやっぱり怖くなってしまうのではないか。普通の日常が恋しくなる時が来るかもしれない。

そんなことが頭をよぎり、応募フォームを押す指を引っ込めてしまうのだ。

そうして時は経ちこの春高校3年生になってしまった。
進路もほぼ決定した、立派な受験生だ。
今さら叶うかわからない夢を追いかけられない。
そもそも応募する勇気もない者が厳しいアイドル業界を生き抜けられるはずがない。

薫はそっと動画のページを閉じた。
スマホを乱暴に掛け布団の上に投げ、目を閉じた。
今さら何もできない、これでいい。
そう自分に言い聞かせ、そのまま眠りに落ちた。




投げた拍子に誤ってタッチしてしまったのだろうか。薫のスマホの画面には、ブックマークからアイドルオーディション情報のサイトページが表示されていたのだった。

Adolescence

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