小花衣 志乃(2話)
「お願いします。アイドルをやらせてください」
翌日、志乃は事務所のマネージャーの前で頭を下げた。
彼女の中で、アイドルへの夢はどんどん抑えきれなくなっていた。
自分にできること、それはお願いすることしかなかった。
事務所の小さな会議室が少しの間静寂につつまれる。
しかし、すぐにマネージャーが口を開き、
「志乃ちゃん、困るよ…。女優業もモデル業もトークもこなすマルチタレントっていう方針で昔からやってきたじゃないか」
と苦笑いをする。それでも志乃は頭をあげなかった。
「確かにそうです。でも…私がこの事務所に入ったのは、芸能界に入ったのは、アイドルになりたかったから…!本当にやりたいことをやれないのなら、もう芸能界には…いたくないんです」
必死に自分の想いを伝える。
膝の前で重ねた両手が震えている。
そんな志乃をじっと見つめるマネージャー。
しかし、彼が首を縦に振ることはなかった。
紅い夕焼け空の下、志乃はひとりで俯きながら歩いていた。
やっぱりどうやったってアイドルにはなれないのだろうか。
キラキラした思いを抱いて入ったはずの芸能界。
現実は大人の言うなり。
もう嫌気がさした。
芸能界はきっぱり諦めて、受験に専念しよう。
「はぁ…」
翌日の午前11時。
日曜日で仕事もオフ。志乃はベッドの上でスマホをいじっていた。
決心を固めた今、なんだか何をしてもおもしろくない。
仰向けだった姿勢をぐるりと回しうつ伏せになり枕の上にスマホを置いた。
何気なくインターネットサーフィンをする。
画面をスクロールすると、間違えて広告をタップしてしまった。
「あっ」慌てて元の画面に戻ろうとしたが、すぐにその手を止めた。
『新規アイドルオーディション』
ドキッとした。スクロールして詳細を見る。
「未経験OK、中学生以上…」
大きな文字で応募条件が書いてある。
よくある条件だが、今の志乃の心を揺れ動かす言葉があった。
「事務所未所属…」
その時、志乃の中で何かがぷつっと切れた。
志乃はすぐに起き上がり、財布を入れたカバンを持って階段を駆け降りた。
「いってきます!」「ちょっと!志乃ちゃんどこ行くの〜?」母が目を丸くして大声で尋ねた。
「美容院!」
そう答えながら志乃は家を飛び出して行った。
「本当にいいの?かなり短くなるよ」
毎月行っている近所の小さな美容院。
シャンプーが終わり鏡の前の椅子に腰掛けると、いつも担当してくれている美容師がそう確認してきた。
「いいんです。お願いします」
志乃は髪を撫でながらそう言った。
「そう、じゃあバッサリいっちゃうよ」
美容師はハサミを志乃の顎あたりまで持って行き、そのまま髪の毛を挟んだ。
ばさり、と髪の束が床に落ちる。
志乃は少し名残惜しそうにそれを見つめたが、すぐに鏡に向き直った。
そこにはショートボブの、あたらしい志乃が映っていた。
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